旭川は家具の街と言われる。
現在は、一時期ほどではないが、全国的に名を知られ、世界市場にて挑戦する 地場企業もあるのだそうだ。
インテリアセンター
http://www.condehouse.co.jp/
匠工芸
http://www.takumikohgei.com/
http://www.takumikohgei.com/products/weave.html
さて、私の中学時代、年配の木工教師がいた。
苗字は水野だったと思う。年齢は55前後。
この教師、他の教科の教師と比較し、言葉が歯切れ良く、動きがきびきびしていて、実習等における、製作に係わる生徒指導は緊張感があり、実際とても厳しかった。
反抗期真っ最中の生徒だらけだったが、この教師の話、その指導だけは、誰もが素直に従った。それだけの気迫がこの教師にはあった。
この木工教師が、授業にて、語ったことで記憶していることがある。
それは、「旭川は家具の街であり、家具はこの地の有力な地場産業である。したがって、皆さんは、この地場産業の担い手となるべく、誠心誠意この授業に没頭していただきたい」という趣旨のことを語った。
私は驚いたが抵抗するすべはない。ただただ従うのみだった。
そして、この教師が最後に示した課題は、踏み台兼用の椅子だった。
それは、構造上は本格的な椅子だった。ホームセンターでいうと釘で接合する千円前後の程度のものではない。ホゾ加工で組み立てられるものだった。材料はすべて無垢の木材、材料費だけでも千円はするものである。
授業はパーツの加工、ホゾ加工から始まった。
椅子のホゾ、ホゾ穴の作り方/手作り家具工房
http://www.ikidukurikagu.com/tenon-mortise.html
私は、もともと不器用で力もなかったので、この教師がいうような椅子が作れる自信はなかった。
どうみても中学生にには無理な課題に思えたが、この木工教師はそんなことおかまいなしに、ノコギリの使い方、ノミの使い方、カンナの使い方、作業姿勢、手の動きについて、一人一人について観察し、実に的確に指導された。
本当に生徒一人一人について声を掛けていた。こんなまめな教師は他にいなかった。
その甲斐あって、曲がりなりにも踏み台兼用の椅子が出来上がった。どの生徒もそれなりのものが出来上がった。
振り返ってみて、どうしてそれが製作できたのか不思議でしょうがなかったが、その教師の指導力の凄さがあって出来たものだったと認めざるを得なかった。その椅子は、その後何の修理の補強もしなかったがその後20年使用に耐えた。
こうした出会いがあり、意匠工学の世界に憧れるきっかけを得て、高校入学後の最初の志望校は千葉大学の意匠工学科となった。
その事実は、私と悪友が話をしていた時、偶然すれ違いざまに通り過ぎた、あの人は覚えており、ある通信添削にそのことを投稿した。
しかし、私は、この業界と無関係な人生を選択することとなり、後になってそのことを後悔するとは、その時、予想することはできなかった。