遠い夜空のオリオン

幼馴染との淡い想い出を綴る私家版郷土史

取り壊された建物 想い出の人たち

取り壊される建物には、例外なく、想い出の人々とその人生が存在している。
旭川で取り壊された建物で、有名になった最初の建物は、旭町の旧藤井病院(旧宣教師館)と思う。
当時の道新記事が残っている。
藤井病院1.jpg
北海タイムスは解体工事を記事にした。
藤井病院2.jpg

時代は変わり、旭川の中心部は解体、更地化が近年相次いでいる。
隣の家の解体工事の場合、誰も立ち会い者が居なかった。私はかつての隣人に変わり、解体業者に隣に住んでいた者であると、挨拶した。
古き物、由緒ある物、歴史と伝統ある物について無関心な人だらけの時代に入ったと思ったからである。
先日、ある商家の解体工事にて、解体工事の進捗を見つめる老人の悲しげな後ろ姿、スマホで写真撮影している人たちを目撃した。おそらく、創業時からの一族の方々なのであろう。
郷土の歴史が先祖とその一族の奮闘の所産であることを知るならば、由緒ある建物の取り壊しに鈍感、無関心であっていいはずはない。
旧藤井病院について覚えていることをメモしておきたい。おそらく三歳くらいから数年間、母は旧藤井病院に治療のために私をおんぶし通院した。廊下は薄暗く、ひんやりとしていた。診察室の人影はまばら。待合室に共産党のポスターが貼ってあった。先生は診察の都度私を見るなり、「まっすぐに前を見るように」言った。診察が終わると、母と先生は10分くらい世間話し、母は先生の話を聞き安心したようだ。話題は子育てに係わるものが多かった。先生は、母の前で私のことをいつも褒めた。私にとって藤井先生は慈父のような存在だった。母は先生から褒めて育てる術を学んだように思う。
そういうやりとりを経て、私は藤井先生に名前を覚えられ、かつ、褒められた患者の一人であることを意識して育った。
三角屋根の藤井病院の建物については、なんとなくそういう形の建物があったことを覚えている。診察時とはうって変わりにこやかな表情で褒めてくれた、藤井先生への恩返しもあり、かすかな記憶を辿り、忘れまいとしてこの原稿を残すことにした。
冒頭の新聞記事は、「緑の西洋館」(川島洋一編)からの引用である。この本のまえがきを書かれている藤井征子さんは、藤井先生のご子息の奥さまだそうだ。