遠い夜空のオリオン

幼馴染との淡い想い出を綴る私家版郷土史

想い出のソファ

最初に出会った時
天井から吊るされたビニールシートが張られた
事務室入り口脇の
こんな形のソファに私は一人座っていました。

 

https://muku-store.com/user_data/sofa.php

 


こんな形のソファーだったことを覚えているでしょうか。

たった四歳の時のことです。


ソファに座る私の目をじっとみて
私の手を引いたことを覚えているでしょうか。

その時からあなたは私の幼馴染なのです。

蒸しパンの想い出

蒸しパンには想い出がある。
塾帰り、お腹が空いた時に近くの店で食べたのが蒸しパンだった。

 


母は、時々蒸しパンをつくってくれたが、あまり美味しくはなかった。

そんなこともあり、パン屋で売っている蒸しパンは有難かった。

蒸しパンには、黒糖、甘納豆、ヨモギ、三種類あった。私の好みはヨモギ

 

http://www.nichiryo-pan.co.jp/products/?products_tag=popularity

 

今は、蒸しパンのレシピ情報がふんだんにあり、つくる人が困ることはない。

 

蒸しパン のレシピ 
https://cookpad.com/search/%E8%92%B8%E3%81%97%E3%83%91%E3%83%B3

 


カロリーが意外に高く、食べると不思議に元気になった。

そんな想い出が残った。

母の料理の想い出

母はお世辞にも料理が上手とは言えなかった。
本人も自覚していたようで、何年間か料理学校に通った。しかし、それでも美味しくならない。料理センスなのか味覚の問題なのかはわからない。

 

そんなこともあり、結婚相手については料理が上手な人と心密かに決めていた。が、料理が上手か下手か、どう見分けるべきかわからないまま結婚した。

結婚後の家内の様子から、料理のセンスは母親に由来するようであることがわかった。料理好きの家系に生まれないと料理は上手くならないらしいのである。

 

結婚後、母と家内の料理を比較するようになった。家内は、調理そのものは手早く、メニューが多種多様なのであるが、カレーライス、シチュー、鍋、おでんみたいなメニューになると大雑把な気がした。

母は、カレーライスは得意ではなかったが、シチュー、鍋、おでんは家内のつくるのよりも美味しかった。特に、寄せ鍋、茶わん蒸し、土瓶蒸しは母の方がだんぜん美味しかった。

 

すき焼き屋というと、五条通り9丁目の北西角地にすき焼き屋があり、ニ、三度入ったことがある。この店のすき焼きは母の味に似ていた。


母の作ったおでんは、六条中通りのおでんの店の味に近かった。女将さんは割烹着が似合う人で、煮込み過ぎない、素材を生かした味だった。女将さんからいただいた自費出版のエッセイ本は大切に保存している。
コロナで店に入る機会がなかなか見つからないのが残念である。

 

亡き母への贈り物

5月8日は母の日だった。
花屋さんの店先はカーネーションを買い求める人で混雑した。

私は、そんなことはしない。
花が庭にたくさん咲いている時期に霊前に何か置いても
口癖のように、もったいないと言う母の姿が目に浮かぶ。

 

母は行動的な人だった。
この人に会うと決めたら翌日には会いに行っていた。

だからわかるのだ。
あの世から、母の日にだけこの世に舞い降りたとして
家の中、庭を見てそのまま帰るような人ではなかった。

そこで
家の周囲の道路の花壇に
母が愛でた花の苗を植え
舞い降りたついでに辺りを散歩できるようにした。

 


今年も
カーネション代わりに植えた
家にあった花が咲き
忘れかけていた母の笑顔を想い出した。

昭和のままの緑橋ビル

解体、更地化が進む旭川市街の中で緑橋ビルがある一角だけは昭和の時代と変わらない。アーケードが無くなったこと、テナントが半分くらい入れ替わった以外は、昔のままである。

中でも、クロバー洋品店、毛糸のてるみ、はんこやさんには、母に連れられて何度か店に入った。

「我が青春の街角へ 旭川昭和ノスタルジー」という本に、昭和30年代の緑橋ビル街の写真が掲載されている。



てるみ、はんこやさんの場所は昔と同じ。クロバー洋品店は一時は別の場所に引っ越したが、今は、ビル内通りの場所に戻ってきた。店の看板を見つけ懐かしい気持ちになった。